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RCCラジオで追悼特番「村下孝蔵 20年目の同窓会」

 中国放送では、1999年6月24日に46歳という若さで病いに倒れたシンガーソングライター・村下孝蔵を偲ぶラジオ特別番組歌人・村下孝蔵〜20年目の同窓会6月22日(土)18時〜21時の3時間にわたり生放送する。パーソナリティは西田篤史。 ゲストはミュージシャンの佐々木リョウ(村下が西田に贈った曲『マイガール』を西田と歌唱)。また長年にわたり深い交流のあったさだまさし、ギタリストの経田康、音楽プロデューサー須藤晃さんが電話出演する。
 なお、当日のリクエストや思い出のエピソードなどの受け付けは、
メール=radio@rcc.net FAX=0822213300

※以下、映画手帖での取材記事などを基に、村下の広島での足跡をたどってみる。
 1953年(昭和28年)2月28日、熊本県水俣市生まれ。中学1年の頃、加山雄三に魅せられて初めてギターを手にし「上手くなればモテるだろう」と独学で猛練習を重ね、すぐに高度なテクニックもマスターした。そして高校生の頃には「学資を稼ぐため“流し”をやったこともあった」という。
 父親が東洋工業(現マツダ)に転職したこともあり「吉田拓郎の出身地・広島」にやって来た村下は1972年、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科に入り、学校の仲間と4人グループ「カラフル」を結成して多くのフォーク・コンテストに出場し入賞。解散後もさまざまなコンテストに精力的に出場して実績を挙げた。卒業後はヤマハ広島店でピアノを売りながら調律師としても働き、ホテル法華クラブで弾き語りのアルバイトも。やがて中国放送ラジオ制作部の那須和男ディレクターの目に止まり、1978年に全国ネット番組『青春音楽列島』で紹介され大きな反響を呼んだ。
 プロ歌手への誘いやレコード会社への斡旋話もあったが、いずれも実現せず、「こうなったら独力で何がなんでもカタチにしてみせる!」と資金稼ぎに奮闘しながら曲づくりに励んだ。東京の貸しスタジオは料金の安い夜間だけ借りた。既にプロになっていた往年の仲間が駆けつけて伴奏や機器操作を担当して5日間で録音を終え、79年7月25日に初の自費制作アルバム それぞれの風を発売した。全11曲で、「実は、思いを寄せていた女性をイメージして作ったものがほとんどなんです…」と「映画手帖」編集部の応接室で照れくさそうに笑顔をみせたのが今も目に焼き付いている。村下孝蔵デビュー2S
 この年に開かれた「CBSソニー・オーディション」中国地区大会で《最優秀アーチスト》に選ばれた村下は、翌80年5月21日にシングル盤月あかり(B面は松山行きフェリー)で念願のプロ全国デビューを果たした。それに先立って5月14日には新八丁堀会館で記念パーティーが開かれ、仲間の友情出演による伴奏を得てデビュー曲を披露した(写真)
 この『月あかり』は自費制作アルバムからのシングルカット。「湯来温泉での彼女との思い出からイメージをふくらませて書いたものですが、今回は詩を少し手直しして録音しました。自分では最高の出来だと思います」と目を輝かせた。この席で、“育ての親”とも言える那須ディレクターは、「人柄の良さも魅力。後輩たちの手本になるよう頑張って欲しい」とエールをおくった。7月1日にはLPも発売。
 時間を少し戻すが、村下はアマチュア時代から、那須ディレクターの計らいでRCC(中国放送)のラジオ番組 たむたむたいむにレギュラー出演していた。メインパーソナリティは、まだ大学生だった西田篤史。そして79年には大学を卒業した西田の初レギュラーである同局のラジオ番組ひろしま青春大通り!ヤンヤン放送局
(10月11日から毎週木曜19時30分〜20時30分)の音楽コーナーで村下はさまざまな曲を聴かせてくれた。こうして村下と西田は兄弟のような絆で強く結ばれた。

 プロとなり初恋』『踊り子などのヒット曲を連発した村下は、84年7月14日、広島・並木通りのとあるビルの3階に喫茶小さな屋根の下をオープンした。15坪ほどの店内にはカウンターとテーブルに30席ほどを配し、村下のキャラクター・イラストをプリントしたTシャツやトレーナー、ピックなどのオリジナル商品も並んでいた。BGMはフォークやニューミュージックで、「いずれ自作曲を店用に録音し直したオリジナルBGMも流したい」と語っていた。
 広島で開催された第12回アジア競技大会(94年10月2日〜16日)の協賛番組として、中国放送と中国新聞社が企画した紀行ドキュメンタリーアジア・ピースロード〜出会いと友情のキャラバン』が92年10月4日から放送された(日曜10時30分〜11時)。これは出会い・友情・感動をテーマに、アジア競技大会に参加する37の国と地域、および近隣国を巡るもので、そのテーマ曲を村下が作詞・作曲し自ら歌った。タイトルは一粒の砂。その発表会で久しぶりに“里帰り”した村下は「砂漠、夕日、そこを走る取材キャラバン隊の孤独との闘いをイメージしながら、3カ月がかりで作りました。この地球で人間は一粒の砂。うずもれるか、輝くか―そんな思いも込めた人生の応援歌でもあります」と話してくれた。実は村下は、かつて水泳でアジア大会出場を目指したこともあったと明かし、「18年目にして歌でアジア大会に参加できて嬉しいです」とニッコリ。
 それから僅か7年後、村下はリハーサル中に倒れた。長く肝炎を患って入退院を繰り返し、思ったように活動できなかった時期もあったが、それでも無理を続けたためか、高血圧性脳内出血で昏睡状態になり、4日後に逝った—。あまりにも若く、突然の別れにファンは泣いた…。それから1カ月半後の8月8日、西田が呼びかけて“とうかさん”で知られる広島・三川町の円隆寺に多くのファンが集まり、音楽葬として見送った光景が忘れられない。